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思考

年収2億円もあった生活をきっぱり捨て去り、現役を引退したという芸能人がいた。その主たる理由は、毎日ゴルフをしたかったからだそうだ。数年前に確か自分のそうした生活について書いた本を出版したはずで、買いはしなかったけれど、その書評に「自慢ばっかりだ」というようなことが書いてあって、やっぱりそうかと思った記憶がある。

山とある仕事を全部やめて自分の好きなことだけをやるという生き方は、誰だって夢見る生き方である。それができれば苦労はない。それができるのは、お金持ちだけ。アメリカのエリートというのは、40歳ぐらいまでに稼げるだけ稼いで、あとは引退して好きなことをして暮らすのだというようなことを読んだこともある。

「自分の好きなことをして生きる」という生き方は、現代の日本では、それができるかできないかを別にして、それ自体は無条件で「よし」とされているように思う。たとえば引退した芸能人に関して、「いいなあ」とか「すごい」とかいった反応はあるだろうけれど、「ばかだ」とか「ひどい」とかいった反応はあんまりなさそうだ。

子供の進路に関してだって、「自分の好きなことをしなさい」という親はいても、「嫌でもこの道を進みなさい」という親は、まずいない。「好きなこと」は何にも代えがたいものである。どら息子が、下手な歌を路上で歌ってばかりいて、まともな仕事をしなくても、「あの子の好きなことなんだから」と甘やかす親は世に溢れている。僕も自分に子供がいたら、「好きなこと」をやらせたいと思う。だから、世の親と何ら変わるところはない。

けれども「好きなことをして生きられればそれでいい」というのは、恐らく根本的には正しくない。そういう生き方は間違っている。もちろん、世の中には、間違った生き方をしている人間がごまんといる、むしろそういう人間ばかりだといってもいいくらいなのだし、第一僕自身も恐らく間違った生き方をしているだろうから、「好きなことをして生きていく」という生き方を非難するつもりもないし、その権利もないけれど、間違っているという事実は動かせない。

なぜ、間違っていると言うのか。間違っていると言い切れるのか。
それは人間がこの世に生きているのは、たぶん、「好きなこと」をするためではなく、誰かを喜ばせるためだろうと思うからだ。
だけど、この考えが間違っていないという保証はもちろんどこにもないけれど。

輪郭
久しぶりに庭師に来てもらって、庭の改造を行ってもらった。もともとは、祖父が作らせた庭だけど、庭というものは作ればそれで終わりというものではなくて、その後の手入れが欠かせない。理想的には、年に二度ぐらいは庭師に手入れをしてもらうのがいいらしいのだけど、そんなことをしていたらお金がいくらあっても足りない。

祖父の手を離れて、僕が庭の管理をすることになってからは、できるだけ自分で手入れをしてきた。植木の手入れから、草むしり、落ち葉の掃除、冬囲いなど、そんなに広くない庭なのにこれが結構大変なのだ。中でもいちばん大変なのは、初夏から秋までの草むしりで、とにかく腰は痛くなるし、蚊にはさされるしで、これから先が思いやられるなあと思っていた。
落ち葉も限りなく落ちてくるから、とにかく葉が落ちる木は処分しようということで、せっかく庭師が計画を立てて植えた山モミジ2本を、切り倒してしまった。今回庭師がやってきて、その「惨状」に茫然としたことだろう。「何のことわりもなく、こんなことをしやがって」と思ったに違いないけれど、そんなことは言わずに、笑って許してくれた。

その罪滅ぼしというわけでもないけれど、とにかく、庭の通路にあたる部分を草が絶対に生えないようにする工事をその庭師に頼んだのだ。といっても、コンクリートで固めるというわけではなく、かたい土のようなものや、玉砂利を敷いたりするという工事で、これがなかなか細かい仕事だった。

僕はこういう職人仕事を見物するのが大好きなので、ほとんど一日中その仕事を眺めて過ごした。雑然とした庭がだんだんと、まるで料亭の坪庭のように変身していく様は、感動的ですらあった。

その過程で痛感したのは、余計な雑然としたものが整理され、処分されていくと、残された大事なものが、俄然生き生きとしてくるということだった。今まで、草が生えていた通路がきれいな土で固められてきれいになると、植木の植えてある土の部分が何の手入れもしていないのに、俄然存在感を増し、輝きだす。
これは僕たちの日常生活でも同じではないのだろうか。僕たちの日常生活は、あまりに煩雑な出来事が多く、雑然としているために、何をしても、その行為が雑然とした日常の中に紛れてしまう。その行為が際立たない。行為の輪郭がぼやけてしまう。
僕の頭の中には、ゴミのような雑念がいっぱい詰まっている。だから、たとえば夕日を見ても、その「夕日を見ている時間」が「至福」のものにならずに、雑念の中に紛れてしまう。まるでゴミの山の中に放置されたダイヤモンドのように。

頭の中から、心の中から、ありとあらゆる欲望、嫉妬、怒り、不安といった雑念をすべて振り払うことができれば、きっと、どんなに些細な出来事でも、物事でも、くっきりと鮮やかな輪郭をもって輝くはずだ。わかっているのだけれど、これはとっても難しい。
せめて、美しく手入れされた庭をみて、その姿に学ぶことにしよう。
僕はつまずく全ての事柄に

モノを買うということに関して、世の中にはどうも二種類の人間がいるらしい。
一つは、「ある必要があって、その必要を満たすためにモノを買う人間」であり、もう一つは「とりあえず面白そうだからモノを買って、その後で使い道を考える人間」である。

ワープロが普及し始めたころ、多くの大人たちは、これで何ができるのかと考え、どうやら年賀状を作るのに便利らしいということで買ったものの、結局うまく作れずに埃を被る運命を辿ったという話をよく聞いた。そこまでいかなくても、とにかく「これで何ができるのか?」ということをよく質問する人がいて、これもできます、あれもできますと説明しても、まあ、そのくらいなら何も何十万も出して買うまでのモノじゃないなあといってなかなか買おうとしない人も多かったそうだ。

パソコンも、デジカメにしても、みんな同じであろう。年なりに経験を積んだ大人は、何事にも慎重で、デジカメについては、もう少したてばもっといいものが出るだろうから待つよといってやはりなかなか買わなかったりする。「デジカメなんて、それこそ生鮮生野菜だから、1年たったら買い換えるぐらいの気持ちじゃないとダメだよ。」という助言には、「もっといいモノ」がでたらそれを買って、最低でも10年は使うんだ、なんて言うのだった。
よく言われるのが、「欲望がモノを生み出す」のではなくて、「モノが欲望を生み出す」のだという事。それが現代という時代の合い言葉である。この合い言葉のもと、モノを買いあさる現代人は、決して無条件に褒められるべきではないけれど、かといって、消費資本主義に翻弄される大馬鹿野郎として一方的に弾劾されるべき筋合いもない。

必要ということがもし一番大事なのだとしたら、いったい僕たちが生きていくうえで本当に必要なものなんてどれくらいあるだろうか。とりあえず、生きていけるだけの食料と衣服と住まいがあれば十分。あとはなくてもいいものばかりである。テレビもパソコンもスマートフォンも車も、なくても生きていける。
それより何より、僕たち自身が「必要」だろうか。僕たちは、自分が世の中に必要な存在なのだと何となく信じているのかもしれないけれど、実は全然そんなことはない。例えば、僕がいなくても(僕が例では説得力に欠けるから、総理大臣でも都知事でも大阪市長でも、なんでもいい。)全然問題ないのだ。むしろ、いないほうがよほど世の中のためなのかもしれない。

つまり「必要だから買う」という傾向の人は、極端にいうと「自分はこの世に必要だから生きている」と考える人なのかもしれなくて、ちょっと考え直したほうがいいと思うのだ。どうしてかというと、そういう人はたとえば会社からある日「あなたはもう必要ないです。」と言われたときに、ものすごくショックを受けてしまって、どうしていいかわからなくなってしまう可能性があるからだ。

僕なんかは、二種類の人間の中では完全に後者の方に属するから、「あなたはうちの会社には、ほんとうはもう必要ないのです。」とほぼ同じ内容のことを面と向かって言われたときも、ショックのショの字もなくて、「ほんとうは必要なくても、うそでも使ってもらえるならそれでいいです。どうせ、僕なんて、ずっと前から必要のない人間なんですから。」と心の中で言って、笑ってやり過ごすことができたのである。

文章を書き始めるときも、「とりあえず面白そうなことを書き始める」そして、その後でいろいろと考え付け足していく。それが非常に楽しい。文庫本も「とりあえず面白そうだから買う。」そして、読んでみていろいろ新しい発見をしていく。それがまたとても楽しい。

それと同じで、僕は世の中に必要とされていてもいなくても、とりあえず、今、存在している。生きてしまっている。そういう自分に、いったい何ができるのか、いろいろ試している。それが苦しいときも辛いときもある。辛いことの方が多いといったほうがいいけれど、それでも結構楽しいこともある。
僕は、それでいいんじゃないか、生きるということは結局そういうことなのではないか、と思っている。